昭和五十三年八月七日 朝の御理解
御理解 第七節 天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。
私は、時々不思議に思うことがあったり、又、天地の神様のお計らいの大きさ、というか広さ、というものを感じることがあるのですけれども、皆さんが例えば、周囲の難儀な問題があったりいたしますと信心をしとれば、やっぱり願わずにはおられません。それが、まあ身近な人であったり知った方であったり致しますとやはり、その方のことをお取次ぎをいただいて願われます。
本人は、全然信心がなかったり知らなかったりそれでいても、鮮やかにおかげを受けることがありますね、まあ人間の心で言うと信心も出来もせん、又は、自分も願いもしよるわけでもないから、そげんスキッとしたおかげやんなさらんでん、よかろうごたる感じがするんですけどね、そうじゃないですね、これはいつも私が体験することです。
そして、本人はおかげとも感じてない、お礼にも出てこない、と言った様なのが、そういうケースが非常に多いです。けれどもそういうようなことが、例えば、今日の御理解からこう、信心はせんでもおかげはやってある、と例えば、あいう、生きとし生けるもの、天地の御恩恵に浴しないものはー人もありませんし、又、これはそれこそ、生きとし生ける者の上に、神様の御恩恵のあるということは感じます。昨日も佐賀の支部長であります空閑さんが、昨日はお中元の皆を代表してお礼にでてみえましたんです。そしてそのお届けをされますのに、あちらに十年から飼ってあった太郎という犬がおったんです。それが十日位になりましょうか、あの、大変きつそうですから、と云うてその犬のことのお願いがしてありました。
そしたら、一昨日、おかげを頂きまして本当に安らかに、お国替えのおかげを頂いたというのです。もう子供たちも、主人も、それから勿論、空閑さんも一生懸命御祈念をなさり、これはいよいよ難しかろうごたる、と、お医者も何か牛乳のようなものを、ストローでのませたり、それでやっと、やっと、通るといったような状態らしいから、皆で、皆起きとったから、私が、今晩は太郎のお付合は私がするから、皆やすんでくれといって、やすまして間もなく、ここへんがかわってきた。それで、一生懸命、大祓いを上げさせていただいて、大祓いが上げ終ったと同時に足をケイレンさせながら、そのままおかげを頂いた。
それでまあ、家族中のものがおそかったけど、みな起きてきて、ローソクをたて、お線香をたてして、お通夜をされたといぅことです。とにかくこのおローソクー本だけでも、お通夜させてもらおうといって、ローソクをー本立てられて、皆んなで、ところが先生、不思議な不思議なことが御座居ました。もう一生懸命御祈念させて頂きよりましたら、この衝立のこの赤を一寸橙色にした様な色の光の周囲に、緑色が、かかってその緑色が、スーッとこう廻る様にして、外へ出ていって、垣根伝いに、スーッとまあ昇天したんだろう、と云うような、犬でもやっぱり、たましいがあるとでしょうか。
と、言う様なお届けがございました、ね、例えばその犬猫の上にでもね、そういう働きがおこってくる。これはね、例えば本当に、そのことは、まあ、とにかくー寸の虫にも五分の魂という位だからあるでしょうね、と、けども、まあ、私は思うのにその橙色であったり緑色であったりというのは合楽の信心の徳を、貴方方がいうなら、特に、貴方が受けなさったといぅことじゃなかろうか、と言うて話したことでした。
これは、そういう犬に対してでも情感が通う、そして信心によってお願いをしておかげを頂くと言う、これは、犬は全快することなく亡くなったけれども、それに向かわれた、と言う事は、とりわけ神様が力をあなたに下さったのじゃあないでしょうかね、と言って話したことでした。
娘さんも一諸について見えとりましたが、大変悲しい顔をしてから、犬が亡くなった模様をお母さんと二人で聞いておりましたが、私はね大体子供の時から、犬猫が、ああ言うのが嫌いなんです、ですから、ところが私の亡くなった弟は非常に猫が好きで、猫と茶碗を一つにする様にして、きたなかといくらおごっても、猫にやったり自分が食べたりしょったんです、そげん、好いとった。
私共、椛目の時代に、ある時、夜中に小用に起きらせて頂いたら、小さい廊下を、私共と両親が居ります部屋の間に廊下があります、その廊下一杯に、その時分飼っておった猫が、長くなって寝てるんですよ、それであのう、普通ならもう、私がポーンと蹴ってから行こうとするとでしょうけれども、何かその時、自分の心の中にヒョッとして、仏教的な、言うならば輪廻説から言うならばですね、人間な、それこそ何千年、何万年かかってこの世に出てくるんだそうだが、その間やはり助かっていないと、又、次々と、牛やら馬やら猫犬すら、生まれ変わらんならんげな、と言う話を聞いておりましたし、ヒヨッとして弟が大変猫が好きであったから、猫が弟の生まれ変わりかも知れん、と思うたらね、それが大変何と言うか、嫌いとかそう言うものでなくてから、何かその猫に対する情がわいて、感動した事とかあったはなしをね、何とかと言う、上人が山道を歩かせて頂きながら、小鳥のさえずり、小鳥の鳴き声を聞いて、詠んだと言う歌がございますよね。
「ホロホロと、鳴く山鳥の、声聞けば、父かとぞ思う、母かとぞ思う」と言った様なね、だから本当に、今、囀っているあの小鳥、今、鳴いておる山鳥が、ヒヨッとすると自分のお母さんかも知れん、お父さんの生まれ変わりか知れん、と思うたらと言う、その情感がね素晴らしいのです、そんなことはあるもんか、と言うても良い事ですけど、その通う心が素晴らしいのです、宗教的情操と、いうならそう言う様なものなんです。
犬猫にでも通わせられる様な情感、というものがね素晴らしい、そこに横におった娘さんがそのことを聞いてから、大変感動されるんですよね、信心は無いのですけど、まあ私が感じたのは、信心ちゃ有り難いもんだなあ、と感じたらしいのです、ですから勿論、信心は有り難い、とにかく、なら、ほんとに、こういう事の上にでも、こういう優しいとか、親切なとか、神心が使えるということが有り難い、ということになるのですけれども。
そういう心の状態になりませんとね、例えば、今日の御理解七節なんか、といぅものがピーンとこないです。天地日月の心になること肝要である、とか、信心が無くともおかげはやってあるという、そういう、おかげにね、天地の働きをうけて。
そして、そういうおかげを受けておるということが感じとして、所謂フイーリングですね、が起こってこない。
昨日、福岡の大森さんが、出てみえましてね、新聞をこれ位切りぬいてみえましたもん、それが、親先生大変広大なおかげを頂いて、本人は感じとるかどうかわかりませんけど、あの交通事故で丁度四ケ月と、いったかね(正教さん四十日ですと返事)植物人間というような状態だったのですね、それが、そこに借家を借りておられる方ですから、御神米を持って、あの、お見舞をされて、御神米を頂かれた時点から、容態が変わってきた。
そして、おかげで退院が出来たという。私は記事はこまいから読まなかったけれど、正教さんが、その、そこで聞きよったんでしょう、その話をそれでその新聞の切り抜きを下さいといって、私から貰っとります、と言いよりましたが。
兎に角、現代の医学で、どうにもできないと言うのが、植物人間ですね、今、それがそのなおった言う事が、その記事に取上げられておるらしいのですよ、持って来て私に見せられましたけれど、眼鏡かけても見えない、最近は見えませんもんですからね、大きな活字だけ見とったんですけどね、これなんかは、今日、私が申します様に、信心はせぬでもおかげはやってある、と言うのではなくて、お願いはせんでもおかげはやってある、と言った様なものを感じる。そう言う例はいくつもあるのです。
皆さんが、自分の周囲の困った人達を、真心こめて言うなら、信心させて頂きゃ、そう言う親切な心がです、犬猫の上にでも使われる様な、ですから、ましてや、人間が難儀をしておると言うなら難儀な事を願われる、願われるその事がね、神様、天地の気感にかなうのではないだろうか、本人はそう言う事はわからんなりに、又、こちらが恩恵がましう、お願いしてあげましたよ、と言うて言う訳じゃないし、昨日の場合はこんなにして、お願いを、御主人が上げられとりますから、是非お礼参拝させてもらいたい、と言っておられるそうですけれども。そう言うおかげを受けるんです、天地の中の微妙な実にデリケートな働き、が、起こってくるのです。
昨日、私は、夕方御本部から電話が掛かってまいりましたから、深町さんところのお父さんが、一切行事が終わってしまった後に倒れたと、それでお願いをして呉れ、と言う電話が掛かった、それから間もなくおかげを頂いた、と電話が掛かってまいりましたけれども、あのう、恵城が傍に居ったんです、そしたら「おじいちゃま、あなたがお願いしなかったでしょう」と言うのです、お願いしとらなかったでしょうと言うのです、いや、お願いしとったばってんか「お願いしとるなら、そげな倒れる筈はない」と言う意味のことを私に言うのです。
昨日、私は昨日から一昨日にかけて、あの人が言うことが、えらい、その今日の御理解で言うと、こう言うその気がついていないけれども、神様のこんな働きを子供ながらも受けておるな、と言う事を感じたんですけれども。
昨日、あの私に、御祈念が済んでからです、あちらに、部屋に退りましたら「お話をして呉れ」と言うから、ならお話をして上げましょう、と言うて私が、桃太郎さんの話をしたのです。そしてね、昔々おじいちゃんと、おばあちゃんとがありました、と私が言いましたらね、直ぐそれを言うのですよ、ありましたじゃないでしょう、居りましたでしょう、と、言うわけです。
あぁほんとにおじいちゃん忘れてしもうた、そしてから、なら、僕がして上げましょうというて、それから、本当に、ばばしゃまがいつも、話しを聞かせとるとですたい、それでやっぱりそれを覚えておる訳ですね、すぐ私の言ったことの違いの所で、訂正するのですね、有りますでなくて居りましたでしょうという、その前の日にも、私は、研修の時にそのことを話したことでしたけどね。
あれは、私が、午後にさがっとりましたら、一人で居りますもん、それから、一恵が寝んだばかりでね、寝とりましたからテレビを見に来るわけです、それで、テレビを見ろうと、一寸待たんの、一恵ちゃんがいま寝たばかりだから、静かにしときなさいというて、私が、申しました。そしたらね「今日、誰あれん遊ぶものが居らんからテレビを見に来たら、テレビを見ちゃでけん、とおじいちゃんが言うから」と不服そうにして言いますからね「信太郎君が居るじゃないかと、静行君やらだから信太郎君と遊びなさい」と私が言いましたら、言う事が、こう言うことを言うのですよ、「僕は信太郎君を好かんとはいわん訳ですね、僕は信太郎君がね、ブラジルにね、帰るときと、ブラジルに行ったときだけが好き」と云うのです、私はそれを聞いてから、えらい深いものを感じましたね、僕は、信太郎を好かんとは言わんのですね、そのブラジルに行くときと、帰って来るときだけが好きだという「それでどうしてなら、ブラジルに行くときやら、帰って来るときだけが好きかね」と言うたら「涙ばホロホロ流すでしょう」と言いました。
もう、本当に神様が驚くばかりにお育てを頂きよるということを、そういう中から感じるのですよね、改めてお育てを言うなら、今日の御理解から言うと信心はせんでもおかげは、やってある、と同時にお願いはせんでも、おかげをやってあることに、私共が、改めて開眼しなければいけない、という風に思うのですよね。 どうぞ